世界中の服作りは「布を裁ち、縫って、完成」という順番でできている。三宅一生はこの順番を裏返した。縫ってから、畳んだのだ。
PLEATS PLEASEの服がなぜ洗濯機で洗えて、スーツケースに丸めて詰められて、それでもシワひとつなく着られるのか。答えはすべて、この順番の逆転にある。ISSEY MIYAKEというブランドを理解することは、この「逆転の思想」を理解することとほぼ同じだ。
三宅一生は「服のデザイナー」ではなく「布の発明家」である
ISSEY MIYAKEは1970年、三宅一生が三宅デザイン事務所を設立したことに始まるブランドだ。ただし、このブランドを「日本を代表するデザイナーズブランドのひとつ」と説明するのは、半分しか正しくない。残りの半分は「素材と製法の研究機関」である。
パリ・オートクチュールの世界では、服は身体に沿わせて立体的に裁断するものだった。三宅はその総本山(ギ・ラロッシュ、そしてジバンシィのアトリエ)で学びながら、まったく逆の問いを立てる。**身体に布を沿わせるのではなく、一枚の布と身体のあいだに生まれる「間(ま)」から服を考えられないか。**この「一枚の布」という思想が、以後50年にわたるすべての仕事の背骨になった。
つまり三宅一生が発明し続けたのは、服のかたちではない。服が生まれてくる仕組みそのものだ。だからISSEY MIYAKEの歴史には、他ブランドのような「名作バッグ」や「アイコニックなロゴ」の代わりに、プリーツ、A-POC、折り紙構造といった技術の名前が並ぶ。
三宅一生という人|五月革命が決めた進路
1938年、広島生まれ。7歳のとき、爆心地から離れた場所で被爆している。多摩美術大学でグラフィックデザインを学んだのち、1965年にパリへ渡り、オートクチュール組合の学校で服作りを学んだ。1966年からギ・ラロッシュのアシスタント、その後ジバンシィのアトリエへ。
転機は1968年のパリ五月革命だ。学生と労働者が街を埋め尽くすのを目の当たりにした三宅は、ひと握りの富裕層のためのオートクチュールに背を向ける。「わずかな人ではなく、多くの人のための服を作りたい」。この決意が、のちの「洗える・畳める・誰の体型にも寄り添う」というプリーツの民主性に、まっすぐつながっている。
1970年に帰国して事務所を設立し、1973年からパリコレクションに参加。69歳になる2007年には研究開発チーム「Reality Lab.」を立ち上げ、そこから再生素材の新ライン(後述の132 5.)を生み出した。2022年8月に84歳で世を去る直前まで、肩書きはずっと「デザイナー」ではなく「作り方の発明者」のほうがふさわしかった。
イッセイミヤケのプリーツはなぜ洗えるのか|「縫ってから畳む」革命
ISSEY MIYAKEの代名詞であるプリーツは、正式には「製品プリーツ(ガーメント・プリーツ)」という技術だ。仕組みはこうだ。
まず、完成サイズの2〜3倍の大きさで服を裁断し、縫い上げる。その「大きすぎる服」を紙に挟み、熱プレス機にかけて一気に折り畳む。ポリエステルは熱で形状が固定される性質があるため、プリーツは半永久的に消えない。
従来のプリーツ加工は「布に折り目をつけてから服にする」ものだった。それを逆にした結果、何が起きたか。
- 洗濯機で洗える。アイロンは要らない。干せば元どおり
- 畳めばコンパクトに収まり、旅行鞄の中でシワにならない
- 試着室で迷わなくていい。プリーツの伸縮が着る人の身体に勝手に合わせるから、「サイズが合わない」が起きにくい
「デザインが美しい」のではない。製造の順番を変えたら、暮らしの中での服の振る舞いが全部変わった。これがISSEY MIYAKEの革命の正体だ。
A-POCと132 5.|「一枚の布」の思想はどこまで行ったか
プリーツが思想の「表現」だとすれば、その思想を最も過激に形にしたのがA-POC(エイポック/A Piece of Cloth=一枚の布)だ。エンジニアの藤原大とともに開発し、1990年代末に発表されたこのプロジェクトは、コンピュータ制御の編み機から切り取り線入りの筒状の布を生み出した。着る人はハサミで線に沿って切るだけで、ドレスやシャツや帽子が「布から生まれてくる」。裁断も縫製も要らない。1997年の「A-POC Queen Textile」はニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されている。
2010年に発表された132 5. ISSEY MIYAKE(イチサンニイゴ)は、この思想の続編だ。前述のReality Lab.から生まれ、再生ポリエステルの一枚の布が、折り紙のように畳まれた平面から、着ると立体の服に立ち上がる。ブランド名は暗号ではない。1枚の布が、3次元になり、2次元に折り畳まれ、5通りにも着られる、という意味だ。
身体を布で覆うのが西洋の服だとすれば、三宅の服は、布と身体のあいだの空気ごとまとう。この「布と身体」という問いを共有しながら、まったく別の答えを出したのが山本耀司であり川久保玲だった。
イッセイミヤケのライン一覧 リーツ プリーズ、オム プリッセ、バオ バオの違い
ISSEY MIYAKEは複数のラインで構成されている。名前が似ていて混乱しやすいので、ここで一度整理しておく。
| ライン | 始まり | ひとことで言うと |
|---|---|---|
| ISSEY MIYAKE(本ライン) | 1970年〜 | 思想の最前線。パリコレで発表されるメインコレクション |
| PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE | 1993年 | プリーツの日常着。ウィメンズ。ブランドの民主性の象徴 |
| HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE | 2013年 | プリーツのメンズ版。太めのプリーツで構築的なシルエット |
| BAO BAO ISSEY MIYAKE | 2000年に原型誕生、2010年に独立 | 三角形のピースが平面と立体を行き来するバッグ |
| A-POC ABLE ISSEY MIYAKE | 現行ライン | 切り取り線入りの布から服を生み出す、A-POC方式の後継 |
| 132 5. ISSEY MIYAKE | 2010年 | 折り紙構造×再生素材。畳まれた美しさ |
はじめて手に取るなら、入口はPLEATS PLEASEかHOMME PLISSÉだ。理由は単純で、この2ラインだけが「毎日着て、家で洗う」ことを前提に設計されているからである。特にHOMME PLISSÉは、もともとPLEATS PLEASEの購買客の約1割が男性だったことから生まれたラインで、いま街で見かける「あのプリーツのセットアップ」はほぼこれだ。BAO BAOは2000年にPLEATS PLEASEのバッグシリーズ「BILBAO」として登場し、2010年秋冬から独立。三角形のピースが動きに合わせて山と谷を作り、持つたびに形の違うバッグになる。平面と立体を行き来する、手のひらの上の「一枚の布」だ。
ジョブズの黒タートルネックは、なぜ三宅一生だったのか
スティーブ・ジョブズの黒いタートルネック。あの「制服」の作者が三宅一生であることは、評伝『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン)にジョブズ本人の言葉で記されている。
きっかけは1981年、ジョブズがソニーの工場で目にした社員の制服だった。デザインしたのは三宅。感銘を受けたジョブズはAppleにも制服を導入しようとして社員に総スカンを食らうのだが、代わりに自分ひとりの制服を三宅に依頼する。届いたのは、黒いタートルネック約100着。以後、彼は死の間際までそれを着続けた。
このエピソードが面白いのは「有名人が着ていた」からではない。毎日同じ服を着るという行為が、服から「選ぶ」という工程を取り除いたからだ。服作りの工程を疑い続けた三宅と、意思決定の工程を削ぎ続けたジョブズ。二人の合作が「考えなくていい服」だったのは、偶然ではない。
VAULTの余談
ISSEY MIYAKEを「きれいなプリーツの服」と呼ぶ人と、「服の再発明」と呼ぶ人のあいだには、静かな一線がある。
前者は間違っていない。ただ、店頭でプリーツの一着に触れたとき、その折り目の向こうに「縫ってから畳む」という順番の逆転を見られるかどうか。それだけの違いだ。そしてその違いは、五月革命の街頭で「多くの人のための服を」と決めた28歳の広島出身の青年まで、一本の糸でつながっている。
服は完成品ではなく、布と身体のあいだで起き続けている出来事である。三宅一生が残したのはプリーツではなく、この考え方そのものだ。
まとめ
- ISSEY MIYAKEの核心は「一枚の布」の思想と、「縫ってから畳む」製品プリーツという順番の逆転にある
- 1968年の五月革命が「多くの人のための服」という民主性の原点。2007年のReality Lab.まで発明は続いた
- ラインは思想の最前線(本ライン・A-POC・132 5.)と日常への翻訳(プリーツ プリーズ・オム プリッセ・バオ バオ)の二層で見る
- ジョブズの黒タートルは、工程を疑う者同士の合作だった




