デムナがバレンシアガのメンズを立ち上げるとき、まず声をかけたのは無名に近いロンドンのデザイナーだった。ケンドリック・ラマーがかかとのないNikeを平然と履き、業界が「次のバレンシアガの椅子」と噂し続ける相手でもある。Martine Rose(マーティン・ローズ)。2007年、ロンドンで生まれたこのメンズウェアブランドの核心は「変わったシルエット」ではない。サウスロンドンの労働者階級の記憶(レイヴ、フットボール、カリブ系移民の家庭)をそのままラグジュアリーの言語に翻訳してみせたことにある。ロンドンのインディペンデントでありながら、その影響力はパリの中心にまで届いている。
Martine Roseは「階級の記憶」を服にするブランドである
ファッションが労働者階級のストリートから「借りてくる」ことは珍しくない。マーティン・ローズが特別なのは、借りる側ではなく当事者としてその文化の内側から服を作っていることだ。
1980年、サウスロンドンのクロイドンに生まれる。母は看護師、父は会計士のジャマイカ系英国人家庭。幼少期の多くをトゥーティングの祖母といとこたちの家で過ごした。90年代のレイヴカルチャー、地元のフットボール、日曜のマーケット。後年のコレクションに繰り返し現れるモチーフは、すべてこの生活圏から来ている。
「ノース・ロンドンのガレージの匂い」「レイヴ帰りの朝の服」。彼女のショーが喚起するのは理想化された身体ではなく、服が実際に生きられる場所(ナイトクラブ、スタジアム、路上)のリアリティだ。ワーキングクラスのクールさを、よそから安く借りてくる素材ではなく、ラグジュアリーそのものとして差し出す。この転倒がブランドの背骨だ。
34歳までは「高くつく趣味」だった|デムナからの一通のメール
経歴は順風満帆ではない。ミドルセックス大学でファッションを学び2002年に卒業。友人でスタイリストのタマラ・ロススタインと立ち上げた最初のレーベル「LMNOP」は2005年に畳んだ。2007年に自身の名を冠したブランドを始めてからも、長く生活は成り立たず、バーで働きながら制作を続けた。本人の言葉を借りれば、ファッションは「34歳まで、ものすごく金のかかる趣味」だった。
転機は一通の連絡だった。かねてから彼女の仕事を評価していたデムナ(当時ヴェトモンを率い、のちにバレンシアガへ)が、2015年にバレンシアガのクリエイティブ・ディレクターに就任すると、メンズウェア立ち上げのコンサルタントとしてマーティン・ローズを招聘する。世界最大級のメゾンの男性服の設計に、ロンドンの無名に近いインディペンデントデザイナーが深く関わる。この事実が業界での彼女の評価を一変させた。バレンシアガのメンズに流れる「誇張されたプロポーション」「日常着の威厳」の感覚には、彼女の刻印がある。

代名詞の解剖|「正しいシルエット」への不服従
マーティン・ローズの服をひと目でそれと分からせるのは、プロポーションの操作である。落とした肩、太く歪んだパンツ、意図的にずらされたポケット。ただし奇抜さが目的ではない。「美しいシルエット」という出来合いの物差しを外して、着る側に「これが自分の形だ」と言わせてしまうのが狙いだ。
それを最も雄弁に語るのがNikeとの仕事だ。2018年から始まった協業で彼女が選んだのは、最新鋭のランニングシューズではなく、「お父さんの靴」と揶揄されてきたAir Monarch(エア・モナーク)だった。サイズ18のアッパーをサイズ9のソールに載せて歪ませたそのスニーカーは、「ダサい」とされてきた日常のリアリティをそのままデザインの主役に引き上げる、彼女の哲学の縮図である。2022年には自身のシグネチャーモデルShox MR4を発表。かかとを落としてミュール化し、ヒールのように持ち上げたShoxユニットは、スポーツウェアの機能的語彙とナイトライフの色気を一足に同居させた。
ショーの場所選びも一貫している。ランウェイの聖域ではなく、ストリートマーケット、クライミングジム、カムデンの袋小路。服が生きる現実の場所でしか、彼女の服は正しく見えない。
主要な仕事の整理
| 仕事 | 始まり | ひとことで言うと |
|---|---|---|
| Martine Rose(本体) | 2007年 | サウスロンドンの記憶をラグジュアリーに翻訳するメンズウェア。2021年からTomorrow社が過半数株主 |
| バレンシアガ メンズ(コンサルタント) | 2015年 | デムナ体制のメンズウェア立ち上げに参画。彼女の評価を決定づけた仕事 |
| Nike協業 | 2018年 | Air Monarchの再解釈から、シグネチャーのShox MR4へ。2023年女子W杯ではNike提供チームのキットも手がけた |
| Clarks(初代ゲストCD) | 2023年発表 | 創業200年の英国靴ブランドが初めて迎えたゲスト・クリエイティブ・ディレクター |
ケンドリック・ラマーが履いた「かかとのないNike」
Shox MR4のミュール版は、発表直後にケンドリック・ラマーが着用したことで一気に注目を集めた。スニーカーでもヒールでもない曖昧な一足を、当代最高のラッパーが平然と履く。彼女の服が持つ人を食ったユーモアが、ポップカルチャーの最前線でそのまま通用した瞬間だった。ドレイクやデムナが早くから公言するファンであることも含め、彼女のブランドは「知る人ぞ知る」から「文化の中枢が参照する存在」へと移行している。2023年にはファッション・アワードで英国メンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

現在地|「次のバレンシアガ」の噂と、インディペンデントの現実
デムナがバレンシアガを離れた2025年以降、後任候補として最も頻繁に名前が挙がるひとりがマーティン・ローズである(2026年7月時点で正式な就任発表はない)。一方で2026年3月、彼女は自身のブランドの2026年秋シーズンの生産中止という「前例のない決断」を発表した。業界中がその才能を欲しがるデザイナーが、自分のレーベルの一シーズンを飛ばさざるを得ない。ラグジュアリー産業の構造的な歪みが、これほど鮮明に現れた例は少ない。
in the vault=ここだけの話
マーティン・ローズの状況は、ファッション産業の古い皮肉を最新版に更新している。産業は彼女の出自(レイヴ、団地、移民の家庭)から生まれた美学を絶賛し、メガメゾンの椅子に座らせようとする。しかしその同じ産業の経済は、美学の源泉である独立したブランドの生産を支えきれない。つまり「文化は買いたいが、文化を生む場所には投資しない」。彼女がショーを毎回ストリートマーケットや袋小路で開いてきたのは、美学の演出であると同時に、この構造への静かな抗議でもある。次に彼女がどの椅子を選ぶにせよ、見るべきはその選択が「借りる側」と「貸す側」の力関係をどう書き換えるかだ。
まとめ
- Martine Roseは2007年設立。サウスロンドンの労働者階級文化を当事者としてラグジュアリーに翻訳するメンズウェアブランド
- 転機は2015年、デムナによるバレンシアガ・メンズのコンサルタント起用。以後、業界評価が一変した
- 代名詞はプロポーションの操作。Nike Air Monarchの再解釈とShox MR4がその象徴
- 2023年英国メンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤー。Clarks初代ゲストCDも務めた
- 2026年現在、「次のバレンシアガ」の筆頭候補と噂される一方、自身のブランドは2026年秋シーズンの生産中止を発表。インディペンデントの岐路に立つ


