ノトーリアス・B.I.G.が撮影現場で一着のジャケットを気に入り、「これをくれ」と言った。それがBAPEだった。日本の裏原宿から生まれたブランドが、なぜニューヨークのヒップホップの現場で「持っていることがステータス」になったのか。答えはブランドの意匠だけでは説明できない。創業者NIGOが、最初から音楽の側の人間だったからだ。このサイトではHuman Madeをブランドとして解説済みだが、この記事はNIGOという人物、特に彼が服と音楽を同時に動かしてきたという、あまり語られない側面を追う。

NIGOは「デザイナー」より先に「DJであり編集者」だった

NIGOのキャリアの出発点はデザインではない。文化服装学院に通いながら、DJ、スタイリスト、雑誌のライターとして活動していた。つまり彼が最初に持っていたのは、服を作る技術ではなく「何が良いものか」を選び、並べ、伝える編集の技術だった。BAPEの猿のロゴやカモフラージュ柄が世界を席巻したのも、独創的なデザイン力というより、ヒップホップ・スニーカー・ヴィンテージという複数の文化を一つの棚に並べる編集力の勝利だったと見るほうが正確だ。

音楽と服はもともと分業ではなかった

現在のファッション業界では、音楽アーティストとブランドの関係はほとんど常に「起用する側」と「起用される側」に分かれている。ブランドがアーティストを広告に使い、対価を払う。この分業が当たり前になる前の時代、NIGOはその境界線をそもそも引かなかった。DJとして現場に立ち、雑誌でカルチャーを編み、その延長で服を作る。彼にとって音楽と服は、最初から同じ一つの「文化を編集する仕事」の別の側面に過ぎなかった。この感覚のまま国際的な規模まで駆け上がった例は、日本のファッション史でも稀有だ。

NIGOという名前の由来と、NOWHEREでの出発

本名は長尾智明(ながお ともあき)。1970年、群馬県前橋市生まれ。同じ裏原宿シーンのカリスマだった藤原ヒロシに雰囲気が似ていたことから「藤原ヒロシ2号」と呼ばれ、その「2号」をローマ字にしたものが芸名の由来とされている。当時の裏原宿という狭いコミュニティ特有の、内輪の距離感がよく表れた命名の逸話だ。

1993年、文化服装学院の学友だった高橋盾(のちのUNDERCOVER創業者)とともに、原宿の裏通りに服店「NOWHERE」を開く。この店から、NIGOはA BATHING APE(BAPE)を、高橋はUNDERCOVERを、それぞれ立ち上げていった。日本のストリートウェア史の起点は、この一つの店に集約されている。

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ビギー、カニエ、ファレル|BAPEがヒップホップの制服になった理由

90年代のBAPEは、日本国内の裏原ブームだけで終わらなかった。ノトーリアス・B.I.G.がニューヨークでの撮影中にBAPEのジャケットを気に入り、その場で着用を申し出たという逸話が残っている。ファレル・ウィリアムズやカニエ・ウェストもいち早くBAPEを着用し、限定生産で入手困難という設計そのものが、ヒップホップ文化が重視する「持っている者だけが持っている」というステータス性と完全に噛み合った。

NIGOはこの人脈を一方的に「着てもらう」だけの関係にしなかった。2003年、ファレルとグラフィックデザイナーのSK8THINGとともにBillionaire Boys Clubを共同設立し、翌2004年にはスケート寄りのフットウェアライン「Ice Cream」(リーボックのライセンス)を展開する。ブランドの受け手ではなく、作り手として音楽側の才能と組み続けたことが、NIGOを他のストリートデザイナーと分ける最大の特徴だ。

この関係の土台には、NIGO自身が長年築いてきた膨大なヴィンテージ・スニーカー・カルチャーグッズの収集がある。何十年もかけて蓄えられたコレクションは、単に個人の趣味ではなく、彼が何を「本物」と見なすかの判断基準そのものだった。ファレルやカニエが彼のもとに集まったのは、服のデザインだけでなく、この蓄積された目利きの力を信頼していたからだと考えるほうが実情に近い。

自らラップグループを結成する|Teriyaki Boyz

NIGOの音楽への関与は、コラボレーションの域を超えている。2000年代半ば、彼は自らラップグループ「テリヤキ・ボーイズ」を結成した。このグループはカニエ・ウェスト、Jay-Z、ファレル・ウィリアムズ、バスタ・ライムス、ビッグ・ショーンといった米国のトップアーティストたちと共演を果たしている。ファッションデザイナーが音楽サイドから客演を呼べるという、当時の日本人としては前例のない立ち位置を、NIGOは自分自身の音楽活動によって作り上げた。

Human MadeからKENZOへ|編集者としての完成形

2010年、NIGOはBAPEで培った「クールさ」から離れ、ヴィンテージへの愛着を軸にしたHuman Madeを立ち上げる。その哲学と成り立ちは別記事に詳しく書いた。そして2021年、NIGOはフランスの名門メゾンKENZOのアーティスティック・ディレクターに就任する。裏原宿の一店員から始まった編集者が、パリのラグジュアリーメゾンの頂点に立つ。この軌跡そのものが、彼の「良いものを見つけて並べる」という一貫した才能の証明になっている。裏原宿という小さな路地裏の感覚を、パリの老舗メゾンの規模でも失わずにいられるかどうか。KENZOでのNIGOは、いまもその実験の途中にいる。この記事は、その実験の背景にある人物像を記録するための一本である。

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NIGOのFAQ

Q. なぜ日本人がヒップホップの現場でそこまで受け入れられた?
90年代のヒップホップ文化は「誰も持っていないものを持つこと」を強く評価する土壌があった。BAPEは日本国内でも入手困難な限定生産を徹底しており、この稀少性がニューヨークの感覚と偶然にも完全に一致した。加えてNIGO自身がDJやライターとして音楽の現場を理解していたため、単なる「服を売る側」としてではなく、同じ文化を共有する仲間として受け入れられた側面が大きい。

Q. BAPEとは今も関わっている?
NIGOがBAPEの経営から完全に離れたのは2013年とされる。現在のBAPEは別の運営体制で続いており、創業者本人はHuman MadeとKENZOに軸を移している。

Q. NIGOの「本業」は何?
デザイナー、DJ、音楽プロデューサー、そして誰よりも早く良いものを見つける収集家。どれか一つに絞れないことこそが彼の本業であり、この記事で見てきた通り、複数の肩書きを同時に動かすことで初めて機能する才能である。肩書きを一つに固定した瞬間、この橋としての価値は半分になってしまうだろう。

Q. 日本人でこの規模で音楽とファッションを両方動かした例は他にある?
極めて稀有な例だ。ファッション側からヒップホップの制作現場に自ら参加し、客演リストにカニエやJay-Zが並ぶという規模は、NIGO以前にも以後にも近い例が見当たらない。この一点だけでも、彼を単なるストリートブランドの創業者として片付けるのが不十分だとわかる。

ここだけの話|NIGOは「橋」であり続けることを選んだ

NIGOのキャリアを振り返ると、彼が一貫して選んできたのは「頂点に一人で立つ」ことではなく「異なる文化圏の間に立つ」ことだった。裏原宿とニューヨークのヒップホップ、日本のヴィンテージ愛好とパリのラグジュアリー。普通なら別々の世界にいる才能同士を引き合わせ、その真ん中に自分の店やブランドを置く。この「橋」としての機能こそ、彼が40年近くシーンの中心にいられた理由だ。

橋であることのもう一つの利点は、流行の変化に飲まれずに済むことだ。片方の岸(ヒップホップ)が下火になっても、もう片方の岸(ラグジュアリーメゾン)が生きていれば、橋そのものは崩れない。NIGOが90年代のブームの終わりとともに消えず、2010年代・2020年代を通じて存在感を保ち続けているのは、単一の文化圏に依存しない立ち位置を、意図してか無意識にか、最初から選んでいたからだろう。

デザイナーとして評価されることも、音楽家として評価されることも、NIGOにとっては目的ではなかったのかもしれない。彼が本当に得意なのは、まだ誰も繋げていない二つの良いものを見つけ、繋いだ瞬間に生まれる火花を、一番最初に目撃することだ。テリヤキ・ボーイズでラップグループを率いながら、同じ時期に服の型紙にも向き合う。この二重生活を矛盾なく続けられる人間は、ジャンルの外にいる者にしか務まらない役割なのだと思う。

まとめ

  • NIGOは本名・長尾智明。1970年群馬県生まれ。DJ・スタイリスト・ライターを経て、1993年にBAPEを創業した
  • 1993年、高橋盾(UNDERCOVER)とともに開いたショップ「NOWHERE」が日本のストリートウェア史の起点になった
  • BAPEはノトーリアス・B.I.G.、カニエ・ウェスト、ファレル・ウィリアムズらヒップホップアーティストの支持で世界的ブランドになった
  • 2003年にファレルとBillionaire Boys Clubを共同設立し、2000年代半ばには自らラップグループ「テリヤキ・ボーイズ」を結成、カニエやJay-Zと共演した
  • 2010年にHuman Madeを設立、2021年にはKENZOのアーティスティック・ディレクターに就任。異なる文化を繋ぐ「橋」としての才能を一貫して発揮している