21年間、一枚の写真も残さず、一度も対面インタビューに応じなかった男がいる。マルタン・マルジェラ。ブランド解説の記事では、彼の仕事(四点タグ、タビブーツ、脱構築)はすでに書いた。この記事が扱うのは仕事の中身ではなく、本人がなぜ姿を消したのか、そして姿を消したあとに何をしていたのかだ。ブランドではなく、人間としてのマルジェラを追う。

マルジェラの不在は「戦略」ではなく「一貫性」だった

デザイナーが顔を隠すことは、しばしばマーケティング上の神秘化戦略として語られる。だがマルジェラの場合、それでは説明が薄い。彼が姿を消したのは1988年のブランド創業と同時、まだ無名の新人だった時点からだ。有名になってから隠れたのではなく、最初から隠れたまま有名になった。話題作りのための沈黙ではなく、「服そのものを見てほしい。デザイナーの個性を見ないでほしい」という思想が先にあり、不在という行動がそれをそのまま実行した結果である。

不在という手法を、他のデザイナーはなぜ選ばなかったのか

1980年代から90年代のファッション業界は、デザイナー個人のキャラクターが商品と同じ重さで売られる時代に入っていた。カリスマ的な発言、メディア露出、私生活まで含めたブランディング。この流れに逆らうことは、当時の業界の常識からすれば商業的な自殺に近い賭けだった。だからこそ、あえて逆を張ったマルジェラの判断は、勇気というより「服だけで勝てる」という確信の表明として読むべきだろう。顔を隠す判断は、弱さの裏返しではなく、作品への絶対的な自信の裏返しだった。

ヘンクの少年|クルレージュに見た未来

マルタン・マルジェラは1957年4月9日、ベルギー・リンブルフ州ヘンクに生まれた。ファッションへの興味の始まりは、子供の頃にテレビで見た番組だったという。そこで紹介されていたのは、1960年代に未来的なデザインで知られたアンドレ・クレージュとパコ・ラバンヌ。既存の服のかたちを疑う仕事に、幼い頃から惹かれていたことになる。

アントワープ王立芸術アカデミーで学び、卒業後の1984年から3年間、ジャン・ポール・ゴルチエのアシスタントを務めた。パリのモード最前線で実務を積んだのち、1988年、共同創業者ジェニー・メイレンスとともに自身のブランドを立ち上げる。同じ学校の少し先輩たちが「アントワープ6人組」としてロンドンで喝采を浴びていた、まさにその余波の中でのスタートだった。

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ファックスと沈黙|21年間の徹底ぶり

創業後のマルジェラの振る舞いは、徹底の一語で説明できる。メディア対応はすべてファックス(のちにメール)で行い、対面インタビューは一切受けなかった。ショーの最後、通常なら創業者が拍手を受けに登場する場面にも、彼は姿を見せず、代わりに白い作業着を着たスタッフたちが並んだ。1997年を最後に、彼の顔が写った写真は一枚も出てきていないとされる。有名になるほど「顔を見せろ」という圧力は強まるはずだが、マルジェラはその圧力の増大に反比例するように、沈黙の精度を上げていった。

この時期、意外な仕事も残している。1997年から2003年、エルメスのウィメンズコレクションを兼任で手がけ、脱構築とはまったく逆の、装飾を削ぎ落とした静謐なミニマリズムを提示した。同じ人間が、片方の手で服を切り裂き、もう片方の手で完璧な仕立てを磨いていた。二つの仕事は矛盾しているように見えて、実は同じ問い(「服の型はなぜこの形なのか」)への、別方向からの回答だった。この振れ幅こそ、彼が単なる「壊す人」ではなかったことの証明である。エルメスの仕事でも本人が公の場に出ることはなく、ここでも「作家より作品」という同じ規律が守られていた。

2009年|声明もなく、静かに去る

2002年、Maison Martin Margielaはディーゼルのレンゾ・ロッソが率いるOTBグループの傘下に入る。商業化が進む会社と、自身が理想とする創作のあり方との間に、次第に隙間が生まれていったと言われている。2008年、創業20周年を飾るショーを一つの節目として、マルジェラは静かにブランドから離れていく。退任声明も記者会見もなく、2009年12月、彼はブランドを去った。ハウスの実質的な運営からは、その少し前から距離を置いていたとされている。

後任探しは簡単ではなかった。しばらくの間、ハウスはデザインチームの集団体制で運営が続けられ、2014年10月、ジョン・ガリアーノがクリエイティブ・ディレクターに就任する。ここで対比が生まれる。ガリアーノはメディアを愛し、劇場的な演出とインタビューを厭わない、マルジェラとは正反対の資質を持つデザイナーだ。沈黙を極めた創業者のハウスを、最も声高な後継者が引き継いだ。この落差自体が、ハウスの新しい物語になった。

2019年|ドキュメンタリーで初めて「声」が出る

沈黙に最初の亀裂が入ったのは、2019年のドキュメンタリー映画『Martin Margiela: In His Own Words』(監督:ライナー・ホルツェマー)だった。マルジェラは出演を承諾する条件として「声を加工すること」を求めたという。映画は顔を一度も映さず、代わりに彼の「手」に焦点を当てる。過去の資料を取り出し、スケッチをなぞる手の動きだけが、本人の存在を示す唯一の映像だ。監督自身がカメラを操作し、この「手」を追い続けたと語っている。

公開後、米ハリウッド・リポーター誌は本作を「その10年で最高のファッション・ドキュメンタリー」と評した。ジャン・ポール・ゴルチエやカリーン・ロワトフェルドら関係者の証言も交え、本人が初めて自分の言葉で創作の軌跡を語った点で画期的な作品になった。ただし「声」は出ても「顔」は出ない。完全な沈黙から、加工された声への半歩。この慎重さの度合いこそ、マルジェラらしさそのものだ。声を加工するという条件一つにも、彼の一貫性が透けて見える。素の声さえも、個人を特定する手がかりになりうる。どこまで明かし、どこで止めるか。その線引きの精度を、彼は10年単位で守り続けてきた。

その後|匿名のまま、美術の世界へ

ファッションを離れたマルジェラは、活動を止めたわけではなかった。パリの美術館ラファイエット・アンティシパシオンで、彼の初めての公開美術展が開催され、約40点の作品が並んだ。ここでも彼は本名を大きく掲げることを避け、匿名性を保ったまま作家活動を続けている。ファッションで培った「作り手を消して作品だけを見せる」という手法が、美術という別の畑でもそのまま実践されている。展示の解説文にも本人の顔写真は使われず、来場者は作品そのものと向き合うことを求められる。ジャンルを変えても、規律だけは一切変わっていない。

マルタン・マルジェラのFAQ

Q. 本当に一度も顔写真がない?
広く報じられている範囲では、1997年頃を最後に確認できる本人の写真は出てきていない。ドキュメンタリー映画でも顔は映されず、手と声(加工済み)だけが公開された。

Q. なぜインタビューをファックスで受けていた?
対面での会話や表情、声のニュアンスから「個人」が立ち上がることを避けるためだと考えられている。文字だけのやり取りは、発言の内容と本人の人格を切り離す効果を持つ。

Q. コム デ ギャルソンの脱構築とは何が違う?
同時代にパリで「服の前提」を疑った点は共通するが、川久保玲は自身の姿を隠さずメディアにも一定数登場してきた。マルジェラの匿名性は、この横串の議論の中でも特異な位置にある。両者の関係は別記事で詳しく比較している。

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ここだけの話|見えないことは、最大の存在感になる

マルジェラの不在を「引っ込み思案」や「照れ」と読むのは的外れだ。むしろ徹底した不在は、最も能動的な自己表現の一つだった。顔を見せる者たちの中で、一人だけ見せない。その一点だけで、彼は誰よりも記憶される存在になった。声高な自己主張が溢れる業界で、沈黙という一手が、どんな饒舌よりも強い記号になり得ることを、彼は約20年かけて証明してみせた。

2019年のドキュメンタリーで、彼はようやく声だけを差し出した。それでも顔は渡さなかった。すべてを明かすことと、すべてを隠すことの間に、いつも第三の道がある。マルジェラが選んだのはその道であり、この選択の精度こそが、彼を単なる「変わり者」ではなく、思想を持ったデザイナーにしている。

ジョン・ガリアーノという最も声高な後継者が同じハウスを率いていることも、この対比をより鮮明にしている。同じ家の中に、沈黙の創業者と饒舌な継承者が並んで存在する。どちらのやり方も間違っていない。ただ、マルジェラの選んだ道の方が、40年近く経ってもいまだに「なぜ」と問われ続けている。答えの出ない問いを残せることこそ、本物の謎の証拠なのだと思う。

まとめ

  • マルタン・マルジェラは1957年ベルギー・ヘンク生まれ。アントワープ王立芸術アカデミーで学び、ゴルチエのアシスタントを経て1988年に自身のブランドを創業した
  • 創業と同時に匿名性を貫き、21年間対面インタビューを一切受けず、1997年を最後に写真も残っていない
  • 2009年12月、声明も記者会見もなく静かにブランドを去り、2014年に対照的な資質を持つジョン・ガリアーノが後任に就いた
  • 2019年のドキュメンタリーで「加工した声」のみ初公開。顔は最後まで見せなかった
  • ファッションを離れた後は匿名を保ったまま美術家として活動を続けている