フランス語で「少年たちのように」。女性が女性らしさの記号から自由になり、少年のような身軽さで生きてほしいという願いを込めて、この名前は選ばれたとされる。COMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン)は、川久保玲が1969年に東京で始め、1973年に会社化した日本のブランドだ。名付けの時点で、すでに「西洋的な女性らしさの解体」という、後の50年を貫くテーマが宣言されていたことになる。
コム デ ギャルソンは「美しくない」を発明した
1981年、川久保玲は山本耀司と同じ季節にパリでデビューした。黒く、穴が開き、左右非対称で、体の線を隠す服。「ボロルック」「広島シック」。当時の欧米メディアの酷評は、いま読めばそのまま功績の目録である。西洋の服が積み上げてきた「美しさ」の定義(体の線、装飾、完成度)を、全部疑ってみせたからだ。
象徴的なのが1982年の通称「レースセーター」。機械の目を意図的に飛ばして作った、穴だらけの黒いニットだ。完成品の「完全さ」を疑い、破れや未完成を意匠に変えるこの手つきは、以後の脱構築(デコンストラクション)と呼ばれる潮流の原点のひとつになった。以後の川久保は、疑うことを一度もやめていない。こぶのように膨らんだドレス(1997年、通称「こぶドレス」)、服として着られるのか判然としない立体。コレクションのたびに「これは服か?」という問いを突きつける。慶應義塾大学で美学を学び、デザイナー教育を受けずにこの世界へ入った経歴も含めて、川久保玲は「服を作る人」である前に「服という概念を実験する人」である。

川久保玲という人|デザインを学ばずに頂点へ
川久保玲は1942年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部で美学を学んだが、服飾の専門教育は一切受けていない。卒業後は旭化成の宣伝部に勤め、フリーのスタイリストを経て、欲しい服が見つからないという理由から自分で服を作り始めた。デザイナーの「正しい育ち方」の外側から来た人である。服の常識を疑い続けられた理由の一つは、常識を教わる機会がなかったことかもしれない。
1969年にコム デ ギャルソンの名で服作りを始め、1973年に会社化。1975年に東京で初のコレクションを発表し、国内で支持を固めたうえで1981年、山本耀司と同じ季節にパリへ乗り込んだ。以後、半世紀にわたってほぼすべてのコレクションを自身で手がけ、80歳を超えた現在も第一線に立ち続けている。メディア嫌いで、インタビューは極端に少なく、自作を解説しない。「服がすべて」という態度も一貫している。
歩みの整理|実験と会社を同時に作った年表
| 年 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1969 | コム デ ギャルソン開始 | スタイリストだった川久保玲が服作りへ |
| 1973 | 株式会社化(東京・南青山) | 実験を続けるための「会社」の始まり |
| 1975 | 東京で初コレクション | 国内での基盤づくり |
| 1981 | パリデビュー | 「黒の衝撃」。翌年には現地法人も設立 |
| 1984 | HOMME PLUSスタート | メンズの実験場を開設 |
| 1992 | Junya Watanabeライン開始 | 「弟子に名前を与える」仕組みの発明 |
| 1997 | 「こぶドレス」発表 | 身体の形そのものを問うた代表作 |
| 2002 | PLAY開始 | ハートのロゴ。経済の柱が生まれる |
| 2004 | ドーバー ストリート マーケット開業 | 売り場の再発明。ロンドンから世界へ |
| 2017 | メトロポリタン美術館で個展 | 存命デザイナーとして異例の栄誉 |
帝国の設計|実験を食わせる仕組み
ただし、実験だけなら50年は続かない。コム デ ギャルソンの本当の凄みは、過激な実験と堅実な商売を一つの会社で両立させる設計にある。
| 層 | 代表 | 役割 |
|---|---|---|
| 実験の最前線 | 本ライン(Comme des Garçons) | パリで「これは服か?」を問い続ける思考実験の場 |
| 翻訳の層 | HOMME、SHIRTなどの各ライン | 実験の語彙を着られる服に翻訳する |
| 換金の層 | PLAY(2002年〜) | ハートのロゴとConverseコラボ。実験を支える収益源 |
| 売り場の発明 | Dover Street Market(2004年ロンドン〜) | 自社と他社を混ぜて売る「市場」。小売そのものの再発明 |
| 人材の層 | ジュンヤ ワタナベ、ノワール ケイ ニノミヤ等 | 社内から独立デザイナーを育てる、ブランド内ブランド制度 |
ラインの数は膨大で、名前も似ているため迷子になりやすい。全ラインの見取り図は別記事に整理してある。

「こぶドレス」|服はどこまで身体を裏切れるか
川久保玲の仕事を一つだけ挙げるなら、多くの批評家は1997年春夏の「Body Meets Dress, Dress Meets Body」。通称こぶドレスを選ぶ。肩や背中や腰に詰め物のこぶが盛り上がり、着る人の身体の輪郭そのものを変形させるドレス。「美しいプロポーション」という服の大前提を、正面から破壊した仕事だった。
このコレクションは発表当時「腫瘍のようだ」と拒絶反応も招いたが、振付家マース・カニンガムがダンス作品『Scenario』の衣装に採用したことで、身体と服の関係を問う芸術として決定的な評価を得た。動くたびにこぶが揺れ、ダンサーの身体が「正しい形」から解放されていく。服が身体を飾るのではなく、服が身体の定義を書き換える。コム デ ギャルソンの思想が最も純粋な形で現れた瞬間である。
2017年、メトロポリタン美術館の「生きた答え合わせ」
2017年5月、ニューヨークのメトロポリタン美術館で「Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between」展が開かれた。存命デザイナーの単独展は、1983年のイヴ・サンローラン以来、実に34年ぶり。年に一度の祭典メットガラもこの展示をテーマに開かれ、リアーナが着た「花のこぶ」のルックは当夜最大の話題をさらった。「間(あいだ)の芸術」と題されたこの展示は、服か彫刻か、美か醜か、男か女か。川久保が壊し続けてきた二分法そのものを主題にしていた。1981年に「ボロ」と呼ばれた仕事が、36年後に美術館の壁の内側で「芸術」と呼ばれる。評価の逆転として、これ以上の完成形はない。
前衛の家の、意外と広い間口|Nike・H&M・Supreme
「難解なブランド」という印象に反して、コム デ ギャルソンは大衆との接点を戦略的に作り続けてきた。NikeやConverseとのスニーカー協業は、PLAYのハート付きチャックテイラーを筆頭に、いまや街で最も見かけるコラボ商品のひとつ。2008年にはH&Mとのコラボレーションで、川久保デザインの服がファストファッションの店頭に並ぶという事件も起こした。前衛の総本山がH&Mと組む。当時は衝撃をもって受け止められたが、「良いものを広く」という川久保の合理性からすれば矛盾はない。
香水も重要な接点だ。1994年に始まったフレグランス事業は「タール」「セロハンテープ」のような反・美的な香りまで発売し、香水の世界でも「きれいなだけの香り」への批評を実践している。服に手が届かなくても、思想の入口はいくつも用意されている。帝国の設計は、ここでも一貫している。
よくある質問
Q. コム デ ギャルソンとPLAYは同じブランド?
PLAYはコム デ ギャルソンの中のカジュアルライン(2002年〜)。ハートのロゴはポーランド人アーティストのフィリップ・パゴウスキーによるデザインで、川久保本人の作ではない。全ラインの関係は別記事「ライン完全図解」で整理している。
Q. なぜ「ギャルソン(少年)」なのに主力はウィメンズ?
名前の由来が「女性が少年のように自由に生きる」ことへの願いだから。女性服のブランドがあえて「少年たち」を名乗ること自体が、このブランド最初の批評である。
Q. 川久保玲の後継者は決まっているの?
公式な後継指名はないが、渡辺淳弥や二宮啓ら「社内で独立ブランドを持つ弟子」を育てる仕組みそのものが、事実上の継承の設計になっている。
in the vault=ここだけの話
コム デ ギャルソンには、よくある批判がある。「本ラインは意味不明なのに、結局売れているのはハートのTシャツじゃないか」。この指摘は事実で、そしてたぶん川久保本人が一番冷静に設計している事実でもある。
PLAYが稼ぐから、パリで採算度外視の実験ができる。DSMが売り場を持つから、流通に美学を曲げられない。ジュンヤたちが育つから、帝国は川久保一代で終わらない。つまりこのブランドの最高傑作は、こぶドレスでもハートのロゴでもなく、「妥協しないための会社の形」そのものだ。前衛を50年続ける方法は、前衛だけをやらないこと。ハートのTシャツを着るとき、あなたはその仕組みの一部になっている。
まとめ
- COMME des GARÇONSは川久保玲が1969年に開始、1973年会社化。名前は「少年たちのように」。女性らしさの記号からの解放という願いを含む
- 川久保玲は服飾教育を受けていない美学科出身。「常識の外側から来た人」であることが、半世紀の実験を可能にした
- 代表作は1997年の「こぶドレス」。服が身体を飾るのではなく、身体の定義を書き換えることを証明した
- 構造は実験(本ライン)/翻訳(各ライン)/換金(PLAY)/売り場(DSM)/人材(ジュンヤら)の五層。実験を食わせる会社設計がブランドの最高傑作である
- 2017年のメトロポリタン美術館個展「Art of the In-Between」で、1981年に「ボロ」と呼ばれた仕事は美術館の壁の内側に入った


